原文のレベルがちょっと上がってい る、その雰囲気に鈍感だから、どうしてもそうなってしまうんだと思う。 そしてもう一つ、それにも関連しているけれど、さっき書いた漢字とひらがなの バランスの問題。たとえば、『ジャバウォッキー』の訳もいろいろあるけれど、高 橋康也はこう訳している。 そはゆうとろどき、ぬらやかなるトーヴたちが まんまにてぐるてんしつつ ぎりねんす げにも よわれなるボロームのむれ うなくさめくは えをなれたるラースか ぼくはこれではダメだと思う。なぜかという、ひらがなまみれだから。ふつう、 子どもが(いやぼくたちでも)何かを見て、むずかしい、よくわからないと思うと きって、なによりも知らない漢字が使ってあるというのが大きい。ひらがなだけ で、一見荘厳でもっともらしく、しかもでたらめ、というのをつくるのはとても困 難だ。「美味しんぼ」で「まったり」というのが出てきたとき、関東圏の人々はか なり面食らうと同時に、つい笑ってしまったはずだ。あんなふうに、ひらがなだけ の知らないことばが登場することは、めったにないし、あればそれはギャグだ。だ から「北斗の拳」の「ひでぶ!」「あたわ!」「あべし!」というのがギャグとし て大いに流行った。でもあのジャバウォッキーは、とりあえずギャグではいけない のね。なんかもっともらしくないと。 これ以外の多くの訳でも、まずあとのハンプティ・ダンプティの解説にあわせ た、だじゃれのつじつまをあわせることにばかりみんな頭がいっていて、『ジャバ ウォッキー』それ自身を詩として「らしく」しようという努力が欠けていると思う のだ。 さらにそれ以外にも、前々から気になっているアリスのしゃべりかたもある。み んな、世の中のふつうの女の子がどんな口をきくか、ちゃんと観察していないんじ ゃないか。前回でもそうだけれど、アリスは上流階級でちゃんとした教育を受けて いて、すごく物知りではある。だからここでの「ふつう」というのは、日本の七歳 半の女の子的な「ふつう」ではない。なんとなく中学生くらいの雰囲気を入れない と、うまくいかない。それでも、既存の訳で見られるような異様な気取ったしゃべ り方や、文語でしかお目にかかれないようなことば使いはしていないはず。もちろ ん訳は慣れの問題もあるし、好き嫌いもあるけれど、ぼくはいまここで自分がやっ たやつこそが、現時点ではいちばんバランスがとれて優れた翻訳だと思う。 B. おはなしそのものについて 今回、訳している間にちょっとアリス論とか、ルイス・キャロル論みたいなのを いくつか読みなおした。ぼくがアリスをまじめに読んだのは、柳瀬尚樹の『ノンセ ンソロギカ』(朝日出版社)を読んでからのことだった。さらに別冊現代詩手帖 『ルイス・キャロル』を読んで、「アリス」というのはなんつー深い含意を持った 小説であることか、とおそれいったのであった。そしてそれに気がつけるこの人々 はなんとえらいのであろうか。そう思って、ぼくはいっしょうけんめい深読みしよ うとしながら、アリスをかたくるしく読んでいったのだった。 さて今回、現代詩手帖別冊のほうをちょっと見てみたんだが――ゴミクズのかた まりだった。みんな、ほんとにばかみたいなことしか書いていない。アリスの世界 では、ふつうの現実の法則が通用せずに夢の論理が云々。そんなことは、読めばわ かる。この国では、夢の(非)論理が現実の論理に勝利して云々。だってこれは夢 の中なんだから、あたりまえではないの。 いまこうして見ると、こういうブンゲーヒョーロンカの人たちとかは、とっても 頭が悪くて、あたりまえのことしか実はいえないのだ、ということがよくわかる。 その一方で、ぼくが小説を読むときにほんとうにだいじだと思うことには、ちっと も触れてくれない。小説そのものについてはまるでしゃべらない。それは単に、し ゃべりやすいことからとりあえずしゃべろうとしているんだろうか、それとも単に 鈍感で、そもそも小説そのもののおもしろさを感じる力がないんだろうか。ぼくは どうも、後者の人が多すぎるんじゃないか、という気がする。 ぼくがだいじだと思うのは、たとえばこういうことだ:なぜ「不思議の国のアリ ス」に比べて「鏡の国のアリス」のほうが暗くて不気味な感じがするのか。なぜ読 みながら、こう、まとわりついてくる感じが強いのか。それは、「不思議の国のア リス」が、夏の昼下がりの川辺で夢見られた物語で、ストーリーのほとんどが、か なり開けた場所で展開するのに対して、この「鏡の国のアリス」は、冬の午後に暖 炉の横で夢見られた物語で、ストーリーの多くが暗い森の中で展開する、というこ ともあるんだろう。さらにさっき言った、鏡の国のほうが漢字をたくさん使える、 というのもあるはず。あくまで一般論としてだけれど、文章を書いていて、漢字の 多い文章はその分、印象が暗くなる。でも、これは逆かもしれない。印象が暗いか ら漢字に違和感がない、ということかもしれない。 そしてもう一つ、「不思議の国のアリス」のほうが、比較的自由に思いつきで構 築されたお話になっているのに対して、鏡の国はもっともっと計算ずくなのね。ア リス自身にとっては、不思議の国の場合と同じように、次々に変なキャラクターと 出会うだけなんだけれど、不思議の国の場合には、次にだれに会うかは特に理由が あるわけじゃない。でも、鏡の国では、ストーリー全体の外側に、冒頭で説明して あるチェスの試合という大きな枠組みがあって、アリスは常にその中で一つの駒と して動かされているだけなのね。そういうストーリー的な構造、逆にいえば制約 が、「鏡の国」をちょっと息苦しく、暗い感じにしているのだ。それを、少女アリ スを自分の手のひらの中で支配したいというロリコン中年男ルイス・キャロルの性 欲のあらわれ、というふうに解釈するのは、それはもうあなたの自由だ。
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