No.118

訳した人の言い訳


 というわけでおまちかね、「不思議の国のアリス」 (http://www.genpaku.org/alice01/alice01j.html) に続いてルイス・キャロル著「 鏡の国のアリス」なのである。Through the Looking Glass: And What Alice Found There (1896) の全訳だ。人民大衆よ、髄喜の涙にむせびつつ、法悦郷に全身をけい れんさせながらのたうちまわるがよろしいのだ。  頼まれもしないのに、われながら物好きな話ではある。でも頼まれたってこんな こと、 ホイホイやりゃあしませんがな。この「アリス」シリーズには、 テッキー なおたく心に訴える独特の魅力がある。それがなんなのかは、いろんな人がいろん な ことを言っていて、まあそれぞれあたっている部分もあるんだろう。Web が普及 してしまったせい でいまではかつてほどの 輝きはないけれど、Voyager 社がマッ キントッシュのハイパーカードを使った expanded book を出しはじめたとき、まっ さきに出たのはアリスの定番注釈書 Annoted Alice だったとか、確か プロジェク ト・グーテンベルグ (http://promo.net/pg/) でも、アリスが 最初期の登録作品の 一つだとか、こういう電子っぽいプロジェクトになにかとかつぎ出される のもこの アリスの特徴だ。Voyager のアリスの場合、ハイパーカード的な形式が、小説のあ りとあらゆる場所にマニアックな 注釈がついて、という Annoted Alice の形式に 実にうまくマッチしたものだったって こともある (逆にそれ以外のやつって、あん まりハイパーカードで読んでもおもしろく なかったんだよね。ギブスン Neuromancer の Voyager 版とか買いはしたけれど、 結局読まなかったな。あと、 注釈の注釈の注釈の……とつきまくってる、タルムードとか仏典とか、 ぜったいこ の手のハイパーテキスト向きだし、ぜったいだれかがハイパータルムードとかハイ パー中論とか作ってるはずなんだけどな。どっかにないかな)。でも、それ以上にこ の作品そのものの力があったはず。ぼくも プロジェクト杉田玄白 ( http://www.genpaku.org/) をはじめるにあたって、やっぱまっさきに目玉でほしい と 思ったのは、このアリスだった。それまでずいぶん長いこと、アリスなんか読み 返して なかったのにね。 付記:そうそう、この翻訳版アリスも、勝手にどんどん注釈つける人と か出て来てくれると おもしろいのになあ。自分でこのファイルを持って って加工してくれてもいいし、 「ここにタグをいれてくれ」とかいう要 望があればいくらでも応じるからさぁ。  もちろんニーズの大きさは無視できない。これは、SFの人も、純文学の人も児童 文学の人も ミステリーの人も、ありとあらゆる ジャンルの人が共通に読んでい て、しかもかなりはっきり記憶に残っているという、 ある種の接点になっている。 だからこそ「白いうさぎについていけ」というのが あの「マトリックス」でも使え るわけだわな。ほかにこんなポジションを持つ作品は 一つもない。プロジェクト杉 田玄白にしても、すでに技術っぽい文書なら、エリック・レイモンド ( http://www.tuxedo.org/~esr/) の 論文をはじめいくつかあったけれど、それを含 めてもっと広い範囲に遡及力を持つもの ってぇと……やっぱこれしかないのよ。  さらにこの Annoted Alice を書いたマーチン・ガードナーが 数学者なのは、常 識だろう。このアリスは別に、科学解説書ではないけれど、各種ヘ理屈を 通じてい ろいろ論理学の勉強っぽい話も出てくる。こいつのおかげで、いろんな人に 変な国 を旅させて夢オチをつけるという科学解説書の形式が一気に開花している。たとえ ば ジョージ・ガモフ「不思議の国のトムキンス」とかね。いやもちろん、主人公が 変な やつに案内されて変なところをめぐる話なんていくらもあって、ダンテだって 形式としては似たようなもんじゃねーかよ、とか言えないこともないのだけれど、 でもアリスは、ちょっと頭のいいやつなら「あ、あたしにもこのくらいならでっち あげられそう」と思わせるような、そんなとっつきやすさもあるんだろう。  そうそう、翻訳の底本には、プロジェクト・グーテンベルグに入ってるやつと、 さらに Annoted Alice の本やら、その他 オンラインでみつけた文やら、いろいろ 参照していて、とくにこれってのはないのだ。 A. 翻訳のこと  「不思議の国」よりこっちのほうがむずかしいかな、とぼくは思っていたんだけ れど、必ずしもそうではなかった。その原因の一つは、アリスがちょっと大きくな って、全体に使う単語のレベルも高くなっているので、「不思議の国」よりちょっ とむずかしい訳をしてもかまわないところにある。鏡の国のアリスは、七歳半。不 思議の国から鏡の国までの時間はというと、不思議の国時代は子ネコだったダイナ が、いまでは自分の子ネコを持っているんだから、まあ三年くらいだろうか。不思 議の国時代のアリスは、カラシというのが鉱物か植物かも知らなかった。鏡の国の アリスは、そのくらいのことは知っている。マナーも知っているし、肉の切り分け も、やったことはなくても、だいたいのことは知っている。女王さまのえらそうな しゃべりかたも知っている。たぶん、日本で育てば、漢字もそこそこ知っているだ ろう。  というわけで、今回の訳では、漢字を増やしてみた。その分、いろんなことがや りやすくなっている。ちょっと増やしすぎたかもしれない。でも不思議の国のアリ スだと、漢字が少なすぎてかえって読みにくい、という指摘があった。そうかもし れない。このくらいだと、どうかな。まあ漢字の多い少ないも、なれの問題ではあ るのだけれど。  途中で、また既存の訳をいろいろ見てみたけれど、みんな……下手だな。「不思 議の国のアリス」をやったときには、高橋訳とか矢川訳とか、まあまあうまいと思 った。でもこの「鏡の国」だと、もうそうは思わない。自分で訳してて、自分の訳 がインプリンティングされたので、ほかの訳が不自然に思えるだけなのかもしれな いけれど。なんというか、「不思議の国」と同じ方針で訳そうとするあまり、そう いう不自然さが出てくるんじゃないかと思う。


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