イラストを描いたテニエルも、全体に漂う暗さを感じている。だからかれのイラ ストは、「不思議の国」に比べてかなり全体が暗いものになっている。それとも、 かれの暗めのイラストの印象のおかげで、小説そのものの印象が暗くなっているん だろうか? これはぼくにもわからない。 で、まあたいがいはここらで、「鏡の国」と「不思議の国」のどっちが好きか、 なんてことを考えるのが定石だろうな。うん、ぼくは昔は、鏡の国のほうが好きだ った。全体をチェスの試合として構築してあるのがなんとも賢く思えたし、ジャバ ウォッキーの発想は天才的だと思ったし。ただ――訳したあとで考えてみると、や っぱり不思議の国のほうが好きだな、という気はする。それは、作品全体の構成に 関わることで、チェスの試合というしばりをかけたせいで、鏡の国のほうはとても 直線的な構造になっている。不思議の国みたいに、前の方の登場人物があとにも出 てきて話をかきまわしたりはしない。一回消えた登場人物は、二度と出てこない。 そして、いくつか有望そうな伏線があっても、それが活用されることもない。たと えば赤の女王さまが、アリスに指示を出すときに「なまえがわからなくなったらフ ランス語で考えろ」と言うところとか、その直後の、花のみつを吸うゾウとか。 さらに――不思議の国では、アリスはもっと真剣だ。自分がどこにいるかわから ないし、ここから出られなかったらどうしよう、と本気で悩んで泣いたりする。鏡 の国では、アリスは自分がいずれここから出られるもの、と完全にたかをくくって いる(赤の王さまの夢の話で、自分が本物かどうかわからなくなるところ以外 は)。そして自分がチェスの駒であることも承知している、というか自分から志願 をしている。このせいで、アリスの感情的な起伏、ぼくたち読者の移入の程度も、 限られたものになってきている。あまりまじめではないな。とちゅうでしょっちゅ う「後でお姉さんに話したところでは」とか出てきて、ああいずれまた同じ夢オチ で終るんだな、というのが読者にもはっきりしている。そして彼女自身には、もう 大きなイベントは起きない。不思議の国では、アリス自身がおっきくなったりちっ ちゃくなったり、首がのびたり、というイベントがいろいろ起きる。鏡の国では、 アリス自身にはなにも起きないでしょう。何も起きないといえば、不思議の国では いろいろ飲み食いしていたアリスは、鏡の国で何一つ口にしないことにも注意。そ ういう、アリス自身の小説への参加のしかたがちょっと疎遠なことも、鏡の国が全 体に薄い感じをつくっているのだ。 いずれ茂木健一郎のクオリア研究がちょっとでも成果をあげれば、こんなことも もっときちんとわかるようになるんだろうね。ぼくはいまのかれのクオリアの話っ て、大風呂敷を広げすぎていて無節操なだけに見えるから期待はしていない。で も、いつかかれの言うようなことが実現すればな、とは思う。そのとき、既存の文 学研究と称するものも、美術ヒョーロンとかもすべて消え去るだろう。そしてぼく たちがほんとうに小説を読んだりしてだいじだな、と思うことがすべて解明され る、かもしれないのだけれど。 ほかにも、たとえば名前のない森の子鹿との話や、ヒツジとボートに載っている ときの花をつむエピソード(特に後者)が妙にエロチックで、しかもナラティブと しても浮いているでしょう。あれをもっとなんかきちんと表現できないものか。あ れは「鏡の国」、いや「不思議の国」まで含めてもいちばん変なところだと思う。 あと、「不思議の国」の子犬の話は、あれはちょっと変なのだ。あれはなぜあそこ にあるんだろう。そういうのを考えてほしいのだ。でもまあ、できないんならしょ うがないか。 C. すずめばちとキャロルのこと 実は「鏡の国」にはもう一章あった。それが、カツラをかぶったすずめばちの話 だ、というのはわかっていた。テニエルが手紙の中で「カツラをかぶったすずめば ちなんて、イラストにしようがない。話もつまらないし、この章は削除したらどう ですか」と書いているからだ。で、ルイス・キャロルはその提案を受け入れて、い ちどは活字に組まれたこの章を削除しちゃったのだ。そしてその章は、もう完全に 失われてしまった。 ……とみんな思っていた。ところが1974年に、キャロルの遺品が競売に出てき て、その中にこの章の試し刷りが混じっていたもんだから、もう大騒ぎ。それが「 カツラをかぶったすずめばち」の章だ。 この章は、白騎士の章のすぐあとに入る。小川をとびこえようとしたアリスがふ と横を見ると、おじいさんのすずめばちがいて、不機嫌そうなので、アリスは新聞 を読んであげるのだ。いろいろ意地悪なことも言われるけれど、がまんして読んで あげると、まあ機嫌もなおったようで、ありがとうと言う。で、お約束で詩も暗唱 してくれて、そして二人は別れて、アリスは川をわたって女王さまになる。 いずれ、この章も訳そう(……と言ってる間に、訳し終えました)。テニエルが いうほどできが悪いかどうかについては、いろいろ議論がわかれる。結構いいんじ ゃないか、という人もいる。ぼくは映画なんかでよくやる、ディレクターズカット だのインテグラルだのいうのが嫌いで、たいがい第三者がカットしろといったとこ ろは、ほんとに無駄なのだと思う。完全版と称するものは、おうおうにしてしまり のないダレた代物になっていることが多い。でもこの章に関しては、確かにそれほ ど悪いとは思えない。うん、確かになくても成立するけれど、あってもいい。まあ それだけ独立して読むこともできるし、それに電子版だといくつかバージョンをつ くることもできるから、まあ比べるのも簡単だ(というわけで、追加したバージョ ンは http://www.genpaku.org/alice02/alice03j.html を参照)。 すでに翻訳がれんが書房新社から出ているけれど、著作権からいえば、キャロル の著作権は切れているから、訳して問題はないはず。ただし、れんが書房のやつを 見ると、なんか変なコピーライト表示になっていたから、ちょっとチェックしてみ るのだ。 ルイス・キャロルは無駄がきらいな人で、「ジャバウォッキー」も昔、妹たちの ために つくっていたファンジンに原型が載っているとか、いろいろ昔のアイデアを 使い回している 人だったんだって。このすずめばちの話も、いずれどこかでまた使 うつもりだったのかもし れない。でも、結局はつかわずじまいだった。不思議の国 の解説には書かなかったけれど、 この人の本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジ ソン。数学の、特に論理学の先生だった。 このあと、キャロルは主立ったと作品と して「スナーク狩り」という変な詩を書いて、それ から「シルヴィーとブルーノ」 「シルヴィーとブルーノ完結編」というのを書く。そして 独身のまま死んだ。 確かにこの人は、ロリコン以外のなにものでもなかった。ただ「不思議の国」の あとがきでは ちょっと茶化した書き方をしたけれど、 でもカメラ小僧みたいな卑 しさはこの人には全然なかった。女の子をどうしたいわけじゃ なくて、まわりにい てくれるのがうれしかっただけみたい。そして「鏡の国」の最初のところの詩で こ の人は、いつかこうしてお話をしてあげている女の子たちもおっきくなって、よそ にいって しまって自分のことなんか忘れちゃうんだろうな、と悲しく思っていた。 第 8 章の 白騎士は、ドジソン先生がいちばん自分の姿を投影している キャラクタ ーだろう(いろいろ変な ことを思いついたりしては悦に入っていて、論理に妙にこ だわっているでしょう)。この 白騎士が詩を朗読してあげる直前に、アリスがその 光景をずっとずっと忘れなかった、と いうくだりがあって、これはドジソンが、本 当にそうなってくれたらな、こうしてお話を してあげている自分の姿を忘れないで いてくれたらな、というのをちらっとのぞかせている んだ。その光景をいつまでも 忘れなかったのは、アリスじゃなくて、ドジソン先生だったんだね。 こことか、ト ウシンソウのところとか、「鏡の国」の一つの特徴は、ドジソン先生自身がかなり 心情を吐露してしまっている部分が多いことだ。トウシンソウのところの、はかな い夢の 花を一心につむアリスの姿を、ずいぶんしつこく描写するところ、そしてそ の はかなさを話者がちょっと嘆いてみせたりするところ。 でも、キャロルの予想は、うれしい形ではずれたみたいだ。昔仲良くしていた女 の子たちは、 大きくなってからもキャロルと手紙のやりとりをしたりして、キャロ ル/ドジソン先生のことを 忘れたりはしなかった。そしてだれ一人「実はあたし、 ドジソン先生にいたずらされて云々」 なんてことも言い出したりせず、みんなとっ てもやさしくて楽しい人としてドジソン先生の ことを覚えている。 なんか、いいよね。 ――2000年8月10日 ウランバートルにて 山形浩生
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