No.120

 じつは、はたを持っているのは書いたり訳したりした人だけじゃない。ふつう、本をつくるときには、いろんな人がいろんなおしごとをする。字がまちがっていないかを確かめる人もいる。イラストをどこにいれようか、とか字の大きさをどのくらいにしようか、とか、決める人もいるし、ひょうしをつくる人もいる。一番読みやすくてきれいになるように、デザインする人もいるし、印刷する人もいるし、本屋さんまでそれを運ぶ人もいる。その人たちみんなが小さなはたをもっている。

 でも、だれかに見せたいな、と思ったとき、いちいち書いた人に「いいですか」ときくのはめんどうくさい。じゅうしょも電話番号もしらないし。それにさいきんでは、みんながはたをふりたがるようになっちゃったもので、いったいだれがはたをもってるのかさえわかんなくなっている。だからぼくは、この文にはそういうはたをつけないことにした。ついでにほかの人も、そういうはたをつけちゃいけないことにした。これでみんな、もっときらくに文がつかえるようになる、はずだ。

 それにこの訳は、電子ファイルにもなっているんだ。いままでみたいに紙の本でしか読めないと「三月うさぎはどこにいたかな」と思ってもさがすのがたいへんだ。電子ファイルにしておくと、コンピュータがそういうことをやってくれる。そんなべんりさもあるんだ。

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 どんなにべんりで、じゃまなはたがなくても、訳したものがまちがってたり、へたくそだったりしたらどうしようもない。でもぼくは、いままで日本でほんやくをしてきた人の中では、かなり上手なほうなので、あまり心配しなくていい。なかには、ニンジンがきらいな子がいるのと同じように、ぼくの訳がどうしても好きになれない人もいるし、それよりぼくという人間がきらいな人もいる。でも、そういう人がいっしょうけんめいさがしても、この訳でホントにまちがってるところはなかなかみつからないだろう。ぼくはこのお話をなんども読んで、かなりよく知ってるんだもの。


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